生きづらさに発達障害という名前がついたら

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友だちが発達障害の話をしていたので、気になって調べていたらこんなnoteを見つけた。

「その診断は誰のために?」診断されなくても大丈夫!検査を受けることは恥ずかしくない

 

発達障害であることが診断されても、手帳がおりなければ立場上健常者と変わらない。

二次障害などが生じていなければ、今までと同様に生活を送っていくことができる。

 

その前提の上で診断を望む理由というのは、noteにある「今までの自分の感じた違和感への答え合わせ」をすることと同時に、「絶望を諦めに変えること」なのではないだろうか。

 

絶望ではなく、「あ、そうすればよかったんだね!」

僕自身、自分には発達障害の傾向があると思っている。

  • 他の人よりも仕事を覚えるのが遅く、ケアレスミスが多い。
  • 金銭管理が下手くそ。物もすぐ無くすし忘れてくる。(ビニール傘はもう10本以上買っている気がする)
  • 「察する」とか「考えればできるでしょ」という類のことが全くと言っていいほどできない。
  • 集団になじむのが苦手。

 

こうした生き辛さを、誰しもが多かれ少なかれ抱えているのだと言われてしまえばそれまでだ。

だけど、自分が発達障害なのだと診断されることを想像してみたら、それはなかなかに爽快というか気分の良いことだった。

 

発達障害なのだと診断されたら、その瞬間、自分への評価は「ダメな自分」という絶望から、「発達障害だったからできなかったんだ!」という諦めに変わる。

 

自分は欠陥品であるという絶望は、てこの原理をはじめて目の当たりにしたときのような、知恵の輪が解けたときのような、

「あ、そうすればよかったんだね!」

「今まで無理なことを頑張ろうとしていたんだなあ」

という笑いを含んだ諦めに変わる。

 

今まで上手くいかなかったことのすべてに合点がいって、急に視界が晴れるような気がする。

 

僕たちの生きづらさをお前が決めるな

「自称発達障害」とは、なんて胸糞悪い言葉なのだろう。

かまってちゃんだとか、発達障害だと診断されたとしても「そんな風に見えないよ」だとか。

 

うるさいな。僕たちの生き辛さをお前が決めるなよ。

 

自称発達障害という言葉には、複数のベクトルの過剰な自意識が見え隠れする。

他人の痛みなんてしょせん他人事だし、みんな非凡なのだと思われたいのだ。(僕含め)

 

だけど、「この私」の人生を生きていくのは他でもない「私」であって、心無い言葉を投げつけてくるような「誰か」ではない。

「私」の生き心地を楽にするためなら、なりふり構わずあらゆる手段に手を付けたっていいはずだ。

 

noteにもあるように、発達障害者のハックは定型発達者にとっても役に立つ。

発達障害の診断は、もっと気軽な気持ちで受けてみてもいいのかもしれない。

 

確定診断が下りるにしろ下りないにしろ自分自身の傾向を知ることで、

「自分がダメだから生きていけない」ではなく、

「だから今まで上手くいかなかったんだね!」と笑い飛ばせるように。

 

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