もしかしたら見てくれていたひともいるでしょうか。
実は先日、Yahoo!ニュースに僕が受けた取材の記事が掲載されていました。
Yahoo!ニュース 男か女か“決めたくない”“わからない” 「Xジェンダー」という性
わりと写真もでっかく載ってはいたのですが、僕はあえてツイッターなどでの告知はしませんでした。
上がってきた記事に対してモヤモヤというか腑に落ちないという感じがあったからです。
それをブログの記事にしたく、

座談会コンテンツなんかいいな~。やりたいな~
などと考えていたところ、強力な味方が!!!

シェアハウスぱれっとで一緒に暮らしている住民のみなさんです。


まだ詳細話してませんけどー!
最高かよ。
入れ替わりの激しいシェアハウスですが、今回の座談会は以下のメンバーでお送りします。


僕以外はみんなシスジェンダー・ストレートです!
Contents
記事に対して感じた違和感。代弁をしたいわけではない。
というわけで座談会ですが、住民たちには事前にYahoo!ニュースの僕たちの取材記事を読んでもらっています。
Yahoo!ニュース 男か女か“決めたくない”“わからない” 「Xジェンダー」という性
パーソナリティはギターも弾けるデザイナー・こんちゃんにお願いしました!



記事を書いた意図が伝わらないというか、Xジェンダーが何かっていうことは分かるけど、それを知ったところで読者に何を感じてもらいたいのか分からない。

「認めてください」っていうざらっとした読後感だけが残っちゃうというか。



それは記事が出てみるまで分かんなかったんだけど、僕はXジェンダーの代表として話がしたいわけじゃなかった。
Xジェンダーの人たちの代弁がしたいわけじゃなかったんだよね。




どっちかっていうと、「この人の場合はこうなんだよ」っていう伝え方をしてほしかった。
僕はXジェンダーの当事者代表として話がしたり、Xジェンダーの人たちの代弁がしたいわけじゃなかったんですよね。
一人ひとりのケースバイケースがある以上は、一人の人間が集団の代弁をするなんてことは不可能です。
その不可能なことを無理にやろうとしたとしても、たった一人のXジェンダーから、「Xジェンダー像」みたいなものが作られてしまうのはとても危険なことだと感じます。
だから、「Xジェンダーとして」ではなく、
Xジェンダーというセクシュアリティはあくまでその人の抱えた一部として、「その人はどんな人なのか」に着目してもらうのが、僕の望むセクシュアルマイノリティに対しての取材です。
「Xジェンダー」「LGBT当事者」「ゲイ」「レズビアン」
そうしたカテゴライズのくくりだけでは、その人自身の姿は見えてきません。
LGBTはマイノリティであっても特殊じゃない。

もうひとつの違和感としては、
セクシュアリティ・ジェンダーっていうのは、男か女かの二択じゃなくてグラデーションがあるものだし、揺らいだり、変わっていっていいもの。
だから僕のセクシュアリティに対する考え方も、この取材を受けたときからはちょっと違ってきてしまってるんだよね。
セクシュアリティは、 男女のどちらかにくっきり分けることのできないグラデーションであり、さらには時間の経過や本人の考え方・受け止め方の変化によって揺らいだり変わっていったりするものです。

その前提において、ある一地点を捉えて取材をするのは、この人はこういうセクシュアリティの人っていうことを固定してしまうことになります。
それはのちにその人のセクシュアリティが変わっていったときに誤解や足かせとなってしまう危険を持っていると感じたんですよね。

グラデーションっていう考え方は確かになかったな。

他人のフィルターを通して自分のことを語ってもらうのってこんなに難しいんだ、とも。

個人的には、男でも女でもその人がどんな人であるかには関係ないって思ってるから。

おれは今までLGBTの当事者っていう人に会ったことがなかった。
だからいすみに来るまで全然知らんかったけど、礼司っていう当事者がいたから「なんか別に普通じゃん」って思えたんだよね。



私ははじめて礼司に会って「Xジェンダーなんだよね」って言われたときに、逆にすごく仲良くなりたい!って思ったの。
それはある意味私も他の人と同じで差別をしているってことになるのかもしれないけど、単純に違う価値観の人と仲良くなりたいなって。


すごい特殊な趣味を持っていますとか、はじめて会う国の人とか、そういう人に出会った感覚。


平等じゃないからこそ、この人の考え方知りたいなって思う。

セクシュアルマイノリティだろうがマジョリティだろうが、
会社員であろうがフリーランスであろうが、
障害者であろうが健常者であろうが、
カテゴライズによる第一印象っていうのは誰に対しても感じるものじゃん。
そのスタート地点からその人をどう捉えていくかっていうことの方が重要だよね。
Xジェンダーの一人の当事者として何を伝えたいのか?


ブログを始めた一番最初の動機は、「自分と同じように悩んでいる子たちがXジェンダーっていう言葉に辿り着くまでの遠回りをなくしたい」っていうことだったんだよね。


僕がブログで発信することが、同じように性自認のあいまいさに悩む人たちの悩みの足掛かりになればいいなというか。


「自分ってなんなんだろう」
「自分だけがおかしいのかもしれない。この感じ方って変なのかも」
っていうことをずっと考え続けてた感じかな。
だから、そういう感覚って正しいんだよ。名前があるんだよっていうのを伝えたいって思ってる

僕はこうしてXジェンダーという看板をつけて発信していますが、ただ僕の言葉がすべてというか正解という風には思ってほしくなくて。
いちXジェンダーのケースであり僕個人が感じていることだよっていう風には伝えていきたいですね。
選択肢があって選ぶのと、それしか選べないこと。



本人たちが、自分たちはパートナーなんだって思っていれば別に良くない?って思っちゃうんだけど。

こだわらなければいいんだろうけど、人によっては世間から認められている感というか、結婚という形がすごく大きな意味を持つこともあるよ。
事実婚だっていいじゃん!っていう人もいるけど、選択肢があって選ぶのと、それしか選べないのとでは、結果が同じであってもそれは全然違う。

語ることをタブーにしたくない
「認めて欲しい」
という言葉はすごく難しい意味合いを持っている言葉なんですよね。
受け取る人にとっては「特別扱いしろ」と言われているように感じてしまうことがあるようです。
僕は、LGBTなんて、とかヘイトな感情を持っている人に僕は認めて欲しいとも、認めさせる必要があるとも思っていません。
それよりもできることは、自分の身近な手の届く世界でいかに自分が生きやすい土壌を整えていくかということだと思っています。
僕の場合は変える必要もないくらい受け入れられているのがありがたい限りですが、
でもここまで来るのにもカミングアウトのハードルとか、オープンに生きることでこの先ずっとカミングアウトし続けなきゃいけないしんどさとか、いろんなものを超えてきています。
そうした行動のひとつひとつが「自分にとっての生きやすい土壌を整える」ということではありました。
ただ。
LGBT・セクシャルマイノリティだというだけでそのしんどさを超えなきゃいけない世界は変だよな。おかしいよなって思います。
そうじゃない優しいコミュニティを作って、その輪が少しずつ大きく広がっていけば良い。
というのが僕の今やっていることやブログの発信の原動力です。
「LGBTだけが」ではなく、たとえばうつや、不登校や、家族関係や、コミュ障や、障害や、様々な生き辛さをもっと楽に語ることができて、しかもヘビーに語りすぎない。
そんな空気感のある世界になっていってほしいです。
LGBTにしろ障害にしろ鬱にしろ不登校にしろ、
多方面に気を使い過ぎて語られなくなることの方がよっぽど怖いことだって思う。別に世界中に認められるためじゃなく、
本当の意味で多様性を許容するやさしい人と居場所の絶対数を増やすために、
矢面に立てる発信者は語ることをやめちゃいけない。— 礼司@LGBTエッセイスト (@iosononelcielo) 2018年7月12日
ノンケもLGBTも恋愛は平等。

全部自由じゃない・平等じゃないっていうのは、LGBTに関わらずみんな同じだと思うよ。
非正規の人は正社員にコンプレックス持っているかもしれないし、背が低くて悩んでいる人もいれば背が高くて悩んでいる人もいる。
親子関係に悩む人も、友だち関係に悩む人もいる。
みんな何かしらは抱えて生きてるんじゃない?


悩みとしては、みんなが普通に悩むことと同じ地点、レベルのことだってことだよね。
僕たちはそれがたまたまセクシュアリティだったってだけで。


れいじはれいじだし、とっしーはとっしーだし、こんちゃんはこんちゃんだし。




違和感もなく勝手に女で、誰に言われるわけでもないのに男の人を好きになってきた。
でも別に女の人を好きになったっていいんだよね。

(てぃむにくっついてごろごろしていたほなみん)




でも確かに、LGBTとかそうじゃないとか関係なくみんな平等だよね。
たとえばレズビアンやゲイの人がノンケの子に告白して振られるっていうのも、レズビアンだからっていうよりはタイプが合わないだけっていうか。
逆もまたしかりでさ。




まとめ
今回の取材記事は、LGBT・Xジェンダーの当事者であることをオープンにしながら発信している僕自身の立場についても改めて考えるきっかけになりました。
- セクシュアリティの悩みもそうじゃない悩みも、悩みとしての重みは同じ
- カテゴライズはアイデンティティの一要素であって、その人そのものではない
- 恋愛の自由不自由は、LGBTsであれノンケであれ平等
特別ではないこと。
僕の発信は一人の当事者の「In my case」であること。
これからもそこは念頭に置きつつ、読んで楽しいコンテンツ作りを目指していきたいと思います!
ぱれっと住民のみんな、協力してくれてまじでありがとー!!
どうもこんにちは!和希です。
礼司さんの言うように「その人はどんな人なのか」というを多くの人が求めていて、
この記事でも求められていたことのように思います。
それに対して、僕は自分のことを語るのが恥ずかしかったりで得意ではないです。
なので、ついつい自分のことは置いておいて人の意見を代弁してしまいます。
この記事ではそのせいで誰が誰のことを話しているのかがバラバラになってしまっていたかもしれないです。
自分と同じように悩んでいる人のために行動することや、優しいコミュニティを広げていくことも必要ですね。
僕なんかはついつい、一人の意見でしかなかったら聞いてもらえないんじゃないか、
自分一人の力じゃ何もできないんじゃないか、といった事を考えてしまいます。
なので、礼司さんの大事にする一人ひとりからの視点も改めて忘れないようにします。
セクシュアリティの悩みについては昨年もゲイであることをアウティングされて自殺してしまった方もいますし、
今も結婚してないが故にパートナーの病室に入れず最期を看取る権利がない人がいます。
そういった問題はXジェンダーにも共通する部分がありますよね。
そんな社会を変えるためには、どうしても一人の力では太刀打ちできないです。
なので、礼司さんのこの対談を見て、一人ひとりに目を向けることと、集団に目を向けることの両方を使い分けられたらと感じました。
トップの写真がすごく素敵ですね。
こんなに上手く自分たちで撮ったんですか?
今後のブログ記事も楽しみにしています。
和希さんお久しぶりですー!!
ブログの記事を読んでいただけたようで、そして僕のブログで僕以外のお二人の方が一緒に受けた記事について言及したことについて、恐縮ではありますがまずはお礼とお詫びとを述べさせてください。
和希さんのコメントから、和希さんご自身もすごく悩まれ、そして言葉を選んでお話してくださっていることが伝わってきました。
発信すること、伝えることってすごく難しいですよね。
僕も取材記事内での自分の言葉について、自分の話した言葉なのに「なんかちがう!!」と思ってしまい今回のブログ記事を書くに至りました(^ ^;)
誰も傷つけない発信なんてできないのかもしれません。
それでも矢面に立てる人たちが発信し続けているのは、僕たちXジェンダーのように見た目上分からないセクシャルマイノリティにとっては、自分から声を上げなければいないことにされてしまう危険性があるからです。
そして「いないことにされる」と、和希さんのおっしゃるように相手からの無意識な差別やパートナーの病床に立ち会えないなど不合理なことが起こってしまうことがあります。
それを防ぐためにも、誰かが発信することは必要なんですよね。
だからこそ発信をする人は、困難だとしても誰も傷つけないように言葉を選ぶ努力はやめてはいけないのだと思います。
僕は今のブログのような考え方と発信をしていますが、今回の取材記事で和希さんが話された言葉や和希さんの発信の方法にも確かになあとうなずく部分がたくさんありました。
それぞれのルート、それぞれのやり方から少しでも多くの人に届けばいいなと思う次第です(^ ^)
最後になりましたが、和希さんのような優しい発信者の方に出会えたことを本当にうれしく思います!!
(内緒ですが、写真はいつもめっちゃ加工していますw(//ω//)
記事を読みました。
同居人の方や多くの方から聞く「自分たちがパートナーと思ってればいいんじゃない?」は既に制度化されている異性婚の権利を忘れていないかな?と思います。
同性婚は気持ちや金銭面の問題だけでなく、権利の問題です。既に認められている異性婚と差をつける理由がないから法制化が望まれているのではないでしょうか。
気持ちだけで人権は得られません。お得パックが同性愛という理由だけで何故得られないのかを疑問視してほしいと思いました。