近所のおばちゃんに「女として生きなきゃもったいないじゃない!」って言われて「あ、はい…」ってなった話

   

スポンサーリンク

タイトルのまんまなんですけど、通りすがりに近所のおばちゃんにつかまりまして、僕のセクシュアリティについて根掘り葉掘りでした。

 

こういう場面で「価値観押し付けんなよ!」みたいなお怒りはツイッターでもよく見かけます。

でも僕もまあこんな感じなんで特におばちゃんとバトルを繰り広げるわけでもなく、

REIJI
あ、はい・・・

ってなったのでその経緯と思ったことについていろいろと書いていきます。

 

事のいきさつ

僕は今4~5人の人たちと千葉の田舎で一緒に暮らしています。

 

シェアハウスという暮らし方はやっぱり物珍しいみたいで、近所に住む方から

そこのおうちには何人住んでるの?

どっからきたの?

と聞かれることが多々あります。

 

今朝もそんな感じで、回覧板をお隣さんに持っていく僕を見かけた近所のおばちゃんに声をかけられました。

「そのおうち(シェアハウス)にも回覧板は届くのね?班の仕事はするの?」

などなど話していたのですが、おばちゃん何かを感じたのか突然こう聞きます。

 

 

「あなた女の子!?男の子!?」

 

 

とっさに隠した方が良いのかどうか分かんなくなって、事なかれのために「女です」とも言えず。

Xジェンダーとか言ってもややこしくなるだけだしとかグルグル考えて言葉に詰まった挙句気づけば

REIJI

え~と性同一性障害で・・・

という説明を始めていました。

 

おばちゃんの疑問

おばちゃんは、「女であることがいかに恵まれてて価値なのか」という価値観を持っており、それを享受しようとしない目の前の僕がまったく理解できず質問攻めを開始します。

 

それに対しダメなバイトみたいな語彙で

REIJI
あー、まあそうっスね

を繰り返す僕(笑)。

 

そのままだと記事にならないので、実際にはおばちゃんには言わなかったオフレコ部分を回答していこうと思います。

 

せっかく女として生まれたんだから女としての幸せを享受しなきゃもったいない。

「女としての幸せ」に納得できてたら手術するまで思いつめてないですね。

 

今の僕は「女としての幸せ」も「男としての幸せ」もどちらも享受できない立場にいます。

でも手術をして自分で自分の身体や、Xジェンダーとして生きることを認められるようになったのでそれなりに幸せです。

 

幸せの基準は、「女として」「男として」ではなく、一人の人間としてどんな自己実現ができるか、周りにいる人たちと自分にとって幸福度の高い関係を築けるかどうかにかかっているように思います。

 

結婚したいと思わないの?

まず現行法じゃ結婚できないですねえ。

パートナーは欲しいですけど、結婚という形にこだわる必要も感じていません。

「女として」の結婚の幸せなら全然欲しくないです。

 

男性に惹かれることはないの?

恋愛対象として男性に惹かれることはまったくないです。

Xジェンダーとしてのカミングアウトをしていなかった頃は、男性から恋愛対象として見られることがすごく苦痛でもありました。

 

たぶんおばちゃん混同してるんだろうなーとは思いましたが、性自認(自分の性別が何であるか)と、性的指向(どの性別の人を好きになるか)はまったく別の話です。

 

親が悲しむでしょう?

この言葉に関してはマジで閉口しました。(そうっスねbotと化す僕)

子供って親のために生きてるんですか?

親だから、家族だから良い関係でいなくちゃいけないんですか?

 

セクシュアリティの面でも人生や仕事の面でも、親の望む通りに生きていたら僕はとうてい自分らしく生きることなんてできませんでした。

だから僕は親の元を離れました。

 

もうこれ以上傷つけ合わないために、一緒にいることよりも離れることが、僕と両親にとっては最善だと思ったからです。

そのことについては両親は今も納得していないと思いますが、僕は離れるよりマシな選択肢を見つけることができませんでした。

 

子供も産まないで老後どうするの?さびしいじゃない

技術的にパートナーと子供を持つことが可能だったとしても、僕個人としては子供が欲しいって願望はあんまりないですね。

子供がいたとしても老後何とか面倒見てもらおうとかそういう気持ちもないです。

 

しかも(笑)ってなったのが

「身体は女性なんでしょう?じゃあ子供産めるじゃない!

子供産みたいと思わないの?」

と言うおばちゃん。

 

いや僕が産むのか。

そりゃ身体の構造上は女なんで産めるこた産めますけど、僕が「産めない」のは、男性が「産めない」のと同じですからね。

 

女性ではない自分には、産み育てる母としての役割は持てません。

将来パートナーが子供を持ちたいと思って何らかの方法で子供を授かるとしても、実際に産むのはパートナーもしくは代理出産を担ってくれる女性。

または里親を引き受けることになるのかもしれません。

 

そうなったとしても、そこでの僕の役割は母親でも父親でもなく、ただの「親」です。

「母親役割」か「父親役割」かどちらかを選べと言われたって僕にはうまく選べないし、どちらかを選ばなくても子供やパートナーと一人の人間として付き合っていくことはできると考えています。

 

どう答えるのが正解だったのかなあ

今までろくなカミングアウトもせず、そのおかげで真っ向からの「お前そんなのおかしいよ!」にもぶつからずにきてたんですが、生まれてはじめて「そういう」意見にぶつかっておうふってなりました。

七十うん年の人生でおばちゃんが築き上げた価値観からすれば、僕みたいなのはまるきり理解不能なのかもしれません。

 

僕とおばちゃんの会話は一応穏便にというか、良い雰囲気で終わりました。

おばちゃんは良い人だったので良かったですが、ただそのこととは別に近所中に「あのシェアハウスの子はね・・・」とか言われても面白くないんで「言わないでくださいね~」とは念押しさせてもらいましたが、一抹の不安はあったり、なかったり。

 

自分のセクシュアリティに関してみんなに知られるのはどうってことありません。

でも良く思わない人から不当な扱いをされるのはやっぱり違うじゃないですか。

 

賢く生きるのが賢いのか。

「自分らしく生きてるんだから周りがそれを受け入れないのは間違ってる!!」っていうのはそれはそれで違うと思うし。

かといって不用意な嘘をつくこともできず。

 

ブログで偉そうにしゃべっていても、いざ自分のセクシュアリティを突き付けられる場面に遭遇した時に何が正しいのかなんて僕にはぜんぜんわかりませんでした。

 

まだまだ声を上げなければいけない時代

将来的には、どんなセクシュアリティも当たり前に存在して当たり前に受け入れられることが理想だと思っています。

 

ただその過渡期において、LGBTも、性同一性障害も、まして男女以外の性別が存在することなんて想像もしない人たちにどうやって「分かって」もらうのか、

あるいは今はセクシュアルマイノリティと呼ばれている僕たちと今日会ったおばちゃんのような価値観を持つ人たちがどうやって「共存して」いくのか。

根の深い難しい問題です。

 

世代が変われば、おそらくLGBTもセクシュアルマイノリティも当たり前にはなっていくでしょう。

世の中は確実にその方向に向けて動き続けています。

 

でも、当たり前に生きられる日々が来るまでの過渡期に生きるLGBT・セクシュアルマイノリティの生き心地を無視して良いわけではありません。

オープンに生きるのもクローズドに生きるのもどちらも同様に正しくて、ただ自分が自分らしくいるために選んだ選択肢を誰かから批判・非難されていいはずがありません。

 

そういう意味では、まだまだLGBTとして声を上げていくことが必要な世界なんだなあということを感じた一件でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA