LGBTを「理解する」という言葉に感じる違和感

僕たちはLGBTであることで、たくさんの人や国やダイバーシティを掲げた企業から理解したいと言われます。

LGBTの理解を広めて・・・

LGBT当事者の生きづらさに寄り添って・・・

 

でも理解するってどういうことだろう?

分かってもらうってどういうことなんだろう?

LGBTを「理解する」とはどういうことか

「理解する」ことは、実際にはその言葉のイメージほどには優しくないし簡単でもありません。

僕には男性を好きになる女性の気持ちは分からない。

生まれた時の自分の性別を受け入れられる人の気持ちもわからない

 

同じように、

たぶん僕の自分のセクシャリティや周囲の男性や女性に対する捉え方を僕と同じように理解するということも、たぶん誰にも不可能だろうと思います。

「理解」と「差別」と「区別」

理解と差別は同じだよ

引用元:羣青 上 (IKKI COMIX)

『羣青』という漫画のなかのセリフです。

その通りかもしれません。

 

あなたという人間と、僕という人間は決定的に違う。

LGBTであろうとなかろうと同じ人間になることができない以上、自分と他者の間の決定的な壁を越えられる人なんてどこにもいません。

 

でも相手への理解が「してあげる」ことなら、そこに生まれるのは

理解してあげなければいけないほど弱く異質で、面倒で、ほかの人よりも劣った弱者(マイノリティ)と、

それを親切にも理解してあげる強者(マジョリティ)との上下関係でしかありません。

「してあげる」理解はやはり差別に他ならないですよね。

孤立して尊重する

「理解」、「差別」と同じジャンルの言葉に、「区別」があります。

区別とは、相手と自分の立ち位置にカテゴライズをつけることです。

自分と他者は前提として比べられるようなものではない。

その違いを認識することを区別と呼びます。

 

カテゴライズによって自分と相手とを明確に区別することで、

「自分と他者は2つの別の存在であって、理解りあうことはできない」

という前提の上にまずは立つことになります。

 

僕とあなたは違う存在であると知ること。

自分と他者を明確に区別すること。

 

それは、私とあなたは決定的に絶対的に分かり合えない。二つの完全に別な存在であることを思い知ることです。

でもそれは決して悲しいこととか寂しいことじゃなく、互いに侵犯しあわない独立した一人の人間としての価値を互いに認め合うということ。

普通でいられることが居場所になる

僕はずっと理解者が欲しいような気がしていました。

1㎜の狂いもなく僕のことを完璧に理解してくれる誰かを。

完全な理解があれば、僕をわかってもらえれば、それがこの世界の僕の居場所になるような気がしていたからです。

 

でもそれではだめだった。

それって誰かが与えてくれるものを欲しがってただ座って待っているだけだったから。

 

僕に必要だったのは、僕の気持ちの代弁者でも、自分の一方的な依存先でもありませんでした。

僕が居場所を見つけたと思ったとき、僕は僕自身の暗い過去や自分の痛みを話す必要なんてなかった。

自分自身の特異性に注目してもらう必要もなかった。

 

ただ同じ空間にいて、一緒に笑って、くだらない話をして、それだけのことで受け入れられていると感じた。

ただ一人のどこにでもいるありふれた人間の一人として、XジェンダーでもLGBTでもないただの自分として、友だちの一人としてそこにいることができた時、そこが僕の居場所になっていた。

 

そしておそらくはそれこそが、「理解する」のではなく「寄り添う」ということなのだろうと思います。

終わりに

全く別の人間なんだから、自分と他者が決定的に絶望的に違うのは当たり前

一人ひとり違う個人は本来比べられるようなものではありません。

理解よりも重要なのは、自分と他者が異なることを知った上で寄り添うことができるかどうかです。

 

寄り添うとは、否定しないこと。

欠点もある。欠落もある。

誰にだって話せないことが一つや二つは絶対にある。

それでもそのままの「あなた」の全存在を許容すること。

 

欠けていたとしても、You’re OK そして I‘m Ok。

そういうあなたが居ることを了承したよ、と伝えてあげることです。

 

僕は「誰かを理解できる人」でいるよりも、「誰かに寄り添う人」でありたい。

それだけが、僕とは違うあなたと同じ地平に立つための唯一の方法であるように思うから。

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