大っ嫌いだと思ってた会社を辞めたその日、僕は涙が止まらなくなった。

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ぼろっぼろ泣いた退職当日

2018年3月24日、3年間働いてきた病院の最後の勤務と送別会が終わりました。

シフトもきつかったし仕事内容自体も激務で、辞めたい辞めたいと周囲にこぼしながら迎えた3年目。

 

正直泣くわけないと思ってたんだけど、最後の挨拶のとき涙腺がすでにやばかった。

うちに帰って、もらった寄せ書きを読んで号泣しました。

辛くてしんどかった場所がいつのまにかかけがえのない居場所になってた。

その涙が何の涙かというと、多分一番はひとつの人間関係が終わってしまったことに対する涙だったと思います。

 

うちの職場は勤務体制とかシステムとかそもそも人手足りなすぎるとか、そういう面ではブラックではあったんですが、

そんな中でも職員一人一人がものすごく子どものことを考えていて、子どもを守るための共闘者・同志としての職員の結託も強固でした。

 

そして緊張してきつくてしんどかった職場は、働いていく中でいつの間にかかけがえのない居場所に変わっていました。

REIJI

仕事のキツさは変わらないのに、子どもの笑顔がかわいくてかわいくてしょうがなくなってた。

子どものわずかな表情やしぐさから気持ちがわかるようになってた。

右も左も分からない新人看護師だったのに、いつの間にか人に教えてた。教えることもすごく楽しかった。

音楽の趣味が合って同僚とライブやイベントに行くようになってた。

 

コミュ障のせいで頑なになってたけど、

辞める直前になってはじめて、職場の人たちが僕が思っていたよりも僕のことをずっと気にかけて心配してかわいがってくれてたことが分かったんですね。

こんなにも途切れさせたくないつながりを持てたのは、僕の人生における他のなににも代えがたい財産であるように感じます。

誰も信じられなかった過去

僕には、なにか間違えば攻撃の対象となる。そういう時期がありました。

人の内面も外面もあることないこと引っ張り出して、少しでも多数派と違えば指さして全員から笑われる。そういう時期がありました。

 

中学でいじめにあって以来、僕にとって他者はものすごく怖いもので、だから失敗しないように、間違わないように、誰かに攻撃する隙を与えないように、僕の内側を誰にもみせないように、必死になっていました。

 

内側を見せるなんてのはその中でも最もとんでもないことです。

もしも自分の内側に侵犯されてしまったら、暴かれてしまう。見透かされてしまう。

自分がどんなに醜くて、劣った人間なのかということを。

 

地獄みたいだった中学を卒業しても僕は固く鎧ってて、きっと近寄りがたかったと思います。

他人の前で何かをすること、発表するとか意見を言うことどころか、日常会話や歩くとか立ち上がるとか一挙手一投足のすべてが怖くて怖くてたまらなかった。

大学では一時期声が出なくなったぐらいストレスを感じていました。

頑なだった僕を明るいところに引っ張り出したのは今の職場の人たちだった。

そして3年前の今頃から今の職場で働き始めました。

 

僕ははじめ、なんで自分みたいな人間に優しくしてもらえるのか全然分からなかった。

僕は醜くて劣った人間のはずだったから。

否定から入る人間関係しか知らなかったから。

 

でも僕がどんなに上手く話せなくても、それを待ってくれた。

同じ趣味の話をすると、うれしそうにしてくれた。

失敗しても、それで全部が台無しにはならなかった。

 

いつの間にか、今日reijiさんと一緒の勤務だから早く終わって良かったと言われるようになった。

頼りにしてるよと言われるようになった。

無条件に人を信じていいということ

今の職場の人たちは、みんな性善説の中で生きていました。

新卒看護師でなんにもできなくたって、僕を最初から信じてくれて、手を差し伸べようとしてくれていたんです。

 

侵犯されることに怯えて固く縮こまってた僕の目の前で、みんな無条件に与えることに躊躇なんてありませんでした。

中学から大学にかけては口が裂けても言えなかったけど、3年目を過ぎた今なら心から言えることを言います。

REIJI

僕は人とかかわることが大好きです。

やっと中学の時の膨大な喪失を取り戻したような気がします。

完璧な人なんていない

他人を信じるということは、以前の僕からしたら考えられないような芸当です。

でもいざ大人になってみると、周りの大人たちはみんないとも簡単にそれをやってのけている。

 

完璧な人なんて本当はいなくて、みんな不完全な自分をさらしながら、他人を信じようとしてるんですよね。

信じられる理由は多分、一生懸命に生きたり働いたり頑張ったりすることで、その他者貢献感一生懸命の中にある真摯さやまじめさみたいのものが伝わっていくから。

僕が一生懸命に看護をしていたことが伝わっていた結果だとしたらとてもうれしいです。

 

性善説を信じるための方法は簡単なことで、一生懸命に生き続けること。そして誰かの一生懸命を信じてあげること、肯定してあげることです。

誰かの居場所を肯定することは、そのまま自分の生きていていい場所を肯定することになります。

無条件で信じてくれる人たちがいることを、無条件で人を信じていいことを、僕もやっと信じることができそうです。

僕の人生は豊かだ。

「僕の人生は豊かだ」

仕事を辞めて号泣した日、月並みだけれどそう思いました。

 

この職場で、働いてこれて良かった。

今の職場の人たちと、出会えてよかった。

中学からずっと死にたくて苦しかった僕が明るい場所に出てくることができたのは、間違いなく今の職場の人たちのおかげです。

 

この職場で働いて、僕は確かに「治療された」のだと思います。

ほかの誰にも成し遂げられなかったことを、今の職場の人たちは簡単に成し遂げてしまいました。

 

人は、信じていいんだ。

そのことをあまりに純粋な、「無邪気に信じる」、そして「見返りなしに優しさを与える」という方法で僕に教えてくれました。

心からこのつながりを無くしたくないです。

 

「大事なんだ」ということにやっとで気づけたから、与えてもらったものを何とか返したい。

誇れる自分になって、あの人たちの前にもう一度立ちたい。

そんな風に思います。

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