知らないで苦しむ人を無くせる日まで僕はXジェンダーと名乗り続ける

   

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「知覚できないもの、認識できないものは存在していないのと同じだ」

というのが、認識論のざっくりとした説明です。

 

たとえば僕たちは「空」「美しい」と感じることがあるけれど、

「空」という言葉も「美しい」という言葉も知らなければ、「空が美しい」ことは認識することができないので、存在していないのと同じことだと。

これと同じことが、セクシャリティにも言えます。

  • 同じ性別の人を好きになることがあること
  • それをゲイとか、レズビアンとか、バイセクシャルとか呼ぶこと
  • 性同一性障害のこと
  • 性別違和のこと
  • Xジェンダーという男性とも女性とも違う性別の在り方があること

 

こうしたことのどれをとってみても恥ずかしいことでも、変なことでも、批判されるようなことでもないのですが、

そういう「言葉」と「概念」を知らなければ、僕たちはLGBTになることすらもできないのです。

レズビアンもXジェンダーも知らなかった頃

「かわいい格好してそのうちいい男の人と結婚して、いつか孫の顔でも見せてね」

これが僕に与えられた女の枠組みでした。

そしてカミングアウトを済ませていない親から、いまだに浴びせ続けられている言葉です。

 

僕がまだレズビアンもXジェンダーも知らなかった頃、僕はこの言葉通りに生きようとしていました。

なぜなら、女性の身体を持って生まれて、女として育てられて、女以外の何かとして生きるという方法も、それに合致する言葉も知らなかったから。

同性愛とか性同一性障害とかを知るどころかその発想すらも起こらず、授業などで大人が教えてくれることもありませんでした。

 

でも自分がレズビアンでXジェンダーであることに納得した今なら、説明がつくわけです。

小学校のころ、友達としての「好き」だと思ってたある女の子への「大好き」も、

男性には持てなかった恋愛感情も

初めて生理がきて、心がばらばらになりそうなくらい混乱して悲しかったことも。

誰か僕に名前を付けて

認識論によると、

「認識できない」「知覚できない」「言葉として知らない」ことと、「存在していない」ことは同じ意味になります。

 

でもセクシャリティの場合は、そうはいきません。

なぜなら、自分という存在が一体何なのか分からなかったとしても、自分が消えてなくなってしまうことはないから。

言葉にするなら、そこに何かあることは分かるのに、それが何であるかは分からない状態。

  • 漠然とした自分の身体への嫌悪感と違和感
  • 「女の子」たちがしたい格好と僕の好きな格好とのズレ
  • 世間的には「女」である僕は、「僕」と名乗ったりしてはいけない。

そんな諸々を説明するうまい言葉を見つけられず、僕は「自分がおかしい」のだという結論にたどりつきます。

 

おかしいものは、直さなければいけない。

おかしいものは、仲間外れにされるから。

おかしいことは、友達にも言えない。

見ないようにしても、名前を知らなくても、確かに存在したXジェンダー

自分の状態とセクシャリティを正確に表現する言葉が見つからないとしても、自分という存在が消えてなくなるわけではありません。

同じように、名前を付けることのできない性の悩みも、消えてなくなるわけではありませんでした。

 

REIJI
定義できない自分って一体なんなのか?

その答えを取り合えず脇には置いてみても、ネットショップや通販で探すのはメンズ服で、(店舗で買う勇気はないw)

ファッション誌も男性誌を買うようになって、

胸があるせいで致命的に男物の服が似合わない自分の身体、丸顔童顔に絶望したりして、

髪を短く切ったらなんかめちゃくちゃうれしくて。

 

Xジェンダーという言葉に出会ったのは、そんなときでした。

自分の頭が突然クリアになったような瞬間を、僕は今でもはっきりと覚えています。

 

REIJI

矯正されなければいけない。

このままでは生きていってはいけない。

それはそんな風に思っていた僕が生まれてはじめて手に入れることのできた、1mmも否定のない完全な自己肯定でした。

「言葉は世界を切り分けてしまうもの」

牧村は「言葉」を「世界を切り分けてしまうもの」だという。

切り分けた時 そこには必ずはみ出るものがある。

牧村はその暴力性に敏感だ

引用元:同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

 

言葉は確かに、世界と世界とを分断していく道具です。

同性愛者と、異性愛者。

トランスジェンダーと、シスジェンダー、

LGBTの人と、そうじゃない人。

でも同時に考えてみなければいけないことは、

僕たちは知らない概念、知らない言葉は生きられないということです。

レズビアンという言葉、Xジェンダーという言葉を知らなかった僕が、レズビアンにも、Xジェンダーにもなることができなかったように。

 

僕たちは、言葉として知らないものを認識することはできません。

自分のカテゴリーに名前を付けることができて初めて、自分の足場を持つことができるのです。

自分のことを誰かに説明することができるのです。

同じカテゴリーを持つ仲間を持つことができるのです。

 

だからこそ、僕はできる限りたくさんの人にXジェンダーを知ってほしいと思います。

僕がしたような遠回りを、「自分はおかしい」という結論にたどり着くようなことをしなくて済むように。

言葉のネクストステージ カテゴライズから当たり前へ

そして、カテゴライズの次の段階は、言葉そのものがなくなっていくことです。

 

差別され、迫害され、時には殺されてしまうことだってあるLGBT(現在進行形でそういう国があります)。

そんなかで当事者たちが自ら声を上げて、セクシャルマイノリティ連合体としてのLGBTや、クィア(LGBTに限定されないセクシャルマイノリティ)という言葉が生まれました。

LGBTが特別ではないことに、多くの国が、人が気付き始めています。

 

それでも、LGBTが保護や権利擁護の対象である限り、言葉による分断は終わりません。

だから、言葉のネクストステージとして、言葉の融和、つまり、LGBTという言葉自体がなくなってしまうことが必要なのです。

 

それはLGBTが認識されず差別されていた頃の世界に戻るという意味ではなく、カテゴライズや認識なんて必要ないくらいごく当たり前のこととして、LGBTが受け入れられるようになるということ。

  • 同性愛者と異性愛者のカップルが、大手を振って同じように外を歩ける。
  • 男性がはくスカートが、おしゃれのひとつとして認識される。
  • 「彼氏できた?」「彼女できた?」という質問が、「パートナーできた?」のように性別を限定しない聞き方になる。(カナダなどではすでにそういう文化ができあがっています)

 

みんなが当たり前であることをわかっていれば、分断、そして認識するための言葉は必要なくなるはずです。

それは、「LGBTの人」でも、「レズビアンの人」、「ゲイの人」でもない、「ただのあなた」としてその人のことを認識する世界です。

 

ただ、日本では現状LGBTやXジェンダー、クィアが、海外のLGBT先進国ほど浸透しているとはいえません。

発信活動のひとつひとつが、まだまだ「認識される段階」として機能しており、LGBTという言葉自体がなくなる未来にはあと一歩、というところです。

 

僕はたまたまインターネットを介して発信をしていますけれど、

LGBTが身近に暮らしていくこと、友達にもいるよーと言える人が少しでも増えることで、着実に「LGBTが当たり前」な世界は近づいてくるのかな、と思います。

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