2017年8月29日午前6時2分。
日本中にけたたましいアラームが鳴り響きました。
北朝鮮がミサイルを飛ばした、と。
しかしこれに対し僕が思ったことはこう。

準夜勤務明けだったんですねー。
微妙に炎上してた堀江貴文氏と同じ気持ちでした。
マジでこんなんで起こすなクソ。こんなんで一々出すシステムを入れるクソ政府
北朝鮮がミサイル発射、政府がJアラートで速報 – LINE NEWS – https://t.co/g6a6HKQ8E1— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2017年8月28日
この時の僕に、北朝鮮が日本本土にミサイルを落とす可能性がどのくらいあるかとかの前知識はなかったのですが、
感じたのは死の恐怖や不安でもなんでもなく、ただただ爆音で鳴ったアラームに対する苛立ちだけ。
対して、こちらはプロブロガーのあんちゃさんの反応。
正直いま毎日幸せだし「いつ死んでも後悔しないなぁ」と思ってたけど、今朝けたたましいアラート音とともにこの画面を見たときに「死にたくない」と心の底から思ってしまった。だから、今日からどんなに歯を食いしばってでも生きのびようと思う pic.twitter.com/OJQchMUA6d
— あんちゃ/まじまじぱーてぃー (@annin_book) 2017年8月29日
ツイッターでの反応も大きく2分されます。
死の可能性に怯えた人と、アラーム音に苛立っただけの僕のような人。
ずっと僕の隣にあった死
中学から高校にかけて、僕は生きることなんてどうでも良いと思っていました。
中学は学年崩壊してたし、
誰にも言えないややこしいセクシャリティは欠陥にしか思えず、明るい未来があるなんて到底信じられなかった。
その頃聞いてた音楽で言うと分かりやすいんだけど、全盛期のMUCCとかPlastic treeとかSyrup16gみたいなものすっごい分かりやすい病みかたしてました。
はじめて知った現実の死
しかしそんな僕でも、最初から実感を持って死を理解していたわけではありません。
はじめて死を現実のものとして確かに認識したのは、高校の同級生の交通事故による死です。
クラスの一斉メールで、そのことを知りました。
亡くなった彼とは別に全然親しくもなんともありません。
しかし亡くなる前日、確かに彼は生きていて、話をして、動いていて、僕もその姿を見ていました。
それが、突然断絶したのです。
棺の中の彼も見ました。
脳挫傷だったという彼の遺体にはほとんど外傷がなく、今にも起きだしそうなくらいキレイでした。
これが記憶にある限り初めての死の体験。

はじめてそう思いました。
人は、死ぬ。
若いとか、健康だとか、善良だとか悪だとか、そんなこととは全然関係なく、すべての人に突然、不条理に訪れる。
死んだ後には、当たり前だけど人生は続かない。
これは大変なことです。
それを高校生という多感な時期に知れたことが、その後の僕の人生と死生観に大きなに影響を及ぼしています。
死の実感を無くしたくない
僕は戦争映画や人が死ぬ映画をたくさん観ます。
それは僕にとってとても重要なことです。
同級生の死によって得た確かな死の実感を無くさないために、そして自分だって呆気なく死んでしまう存在なんだということを思い知るために。
その極め付けが、こないだ観た『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦』でした。
「ハイドリヒを撃て」
自分の人生を根底から揺るがされるような映画だった。日本は平和だ。
だからこそ皆この映画を観るべき。
月並みだけれど二度とこんな痛みを起こしてはいけない。そしてキリアン・マーフィー文句なしに最高だから😄
— reiji@FtXブロガー (@iosononelcielo) 2017年8月22日
よくよく考えてみたけど、「ハイドリヒを撃て」は僕の人生で最良の映画だったと思う。
襲撃による望まぬ結果もその後の惨たらしさも確かにやりきれない。
それを踏まえて、只々自らの信念のために戦った姿はどうしようもないくらい悲しくて美しかった。
DVDが出たら買おう
— reiji@FtXブロガー (@iosononelcielo) 2017年8月29日
すーげーエグい映画ですが、
目を背けたくなるような凄惨なシーンの数々や、戦争という不条理に引き裂かれ痛めつけられる人たちの姿が、やりきれないほどの死の残酷さ、まさに死の実感を与えてくれます。
自分だっていつか死ぬことに危機感を持つ
日本は平和です。
意識的に目を向けようとしなければ、あるいは身近な人が死なない限り、病気やけがで自分に命の危機が迫らない限り、いっさい死に関わらず生きていくことができる。
身近な人の死すら、病院死が主流な時代において、清潔に丁寧に日常生活から切り離されています。
でもそうやって僕たちが死を見ないでいるまさに同じ瞬間、銃弾の飛び交う音を聞きながら眠る少女がいて、皮膚の下に麻薬を埋め込まれて戦う少年兵士がいます。
そういう人たちがいることを知ってありがたく生きなさいというクソみたいなすり替え論ではなく、ただ僕は死の実感を持って生きたいのです。
人はいつか死にます。
掛け替えのないたった1人の自分の命でさえ、いつか必ず暴力的に不条理に断絶させられてしまう。
そのことを意識して生きるか生きないかは雲泥の差です。
いつか死ぬのに、親や社会の機嫌を取っている場合ではありません。
いつか死ぬのに、嫌な仕事をしている場合ではありません。
本当は何もかもかなぐり捨ててでも、自分が人生において心から成し遂げたいことのために死にもの狂いにならなければならないはずです。
だって僕たちは必ず死ぬんだから。
死の実感を持つと、生きることが輝きだす
僕は死の実感を自分の中から決して無くしたくありません。
不思議なことに死を意識すると、逆に死ぬことが怖くなくなります。
いつ死んでもいいように、今に全力を尽くすからです。
いつか死ぬことを正確に知っている人にとって、道半ばという概念はありません。
楽しい今だけが本物です。
死を知れば、死ぬことは怖くなくなる。
死を知れば、今を一生懸命に生きるようになる。
死を知れば、何が大切なのかが分かるようになる。
僕はそういう風に生きていきたいです。