なぜLGBT映画は撮られ続けるのか? 当事者・非当事者のLGBT映画との向き合い方

こんにちは!FtXブロガーのreijiです!

僕はLGBTや同性愛を扱った映画をよく観ます。

 

彼らが本気で編むときは

ムーンライト

キャロル

たかが世界の終わり

無伴奏

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

 

最近観たのはこんなところで、全部面白くておすすめなのですが、今日の主題はそれではありません。

ノンケの人たちがLGBT映画を観ることの意味ってなんだろう。

ということです。

なぜLGBT映画は撮られるのか?

この質問の答えは簡単で、

物語には登場人物の葛藤が必要ですが、LGBTというテーマ自体がすでに葛藤を抱えているからです。

 

許されざる愛とか、叶わぬ恋とか、差別とか理解とか。

葛藤があれば登場人物はその葛藤を解決するために行動する。行動すれば物語は転がる。そういう風にして映画や小説は出来ています。

 

同性愛、トランスジェンダーなどはある種、手っ取り早い葛藤アイテムなのです。

LGBT映画から考えるカミングアウト

でも実際に生きてる僕らセクシャルマイノリティにとっては、僕らの人生なんて英雄譚でもなんでもない。

ドラマなんかない。

どこにでもあるフツーの下らない人生を、誰の目にも留まらず生きて死ぬだけのこと。

 

だから僕はLGBT関連のお涙ちょうだい的な映画は嫌いです。

しかしそういう映画があまりに多く、そして繰り返し作られることが象徴しているように、

世間が僕たちセクシャルマイノリティを見るその視線はいつになってもフリークス(異形)として取り沙汰している感が否めません。

 

人と違うところがあったって僕たちみんな同じ人間

同性を好きになることだってちっとも変なことじゃない

トランスジェンダーの人たちはこんな風に苦しんでる

 

世間が要求するのは、こういう

括弧(かっこ)付きの「レズビアン」、括弧付きの「ゲイ」、括弧付きの「トランスジェンダー」。

そうであるかぎり、「カミングアウト」なんて馬鹿げたシステムがなくならない。

カミングアウトによって大切な友達が、子どもが「レズビアン」と言う化け物、「ゲイ」という化け物に変わってしまったと、ノンケの人たちはそういう誤解をし続けるわけです。

 

LGBTであろうがなかろうが、その人がその人であるという事実は変わりえないのに。

 

ノンケの人たちが「異性愛者」という生き物でないように、僕たちだって「ゲイ」「トランスジェンダー」という生き物ではない。

セクシャリティは「私が私であること」の付随物でしかないんです。

 

経験ある人は分かると思いますけど、カミングアウトってする前もした後もマジで怖くて仕方ない。

今までの関係性とか相手の自分に対する見方とか、何もかも変わっちゃうんじゃないかって気がする。

 

REIJI
セクシャリティが隠さなきゃいけないことじゃなくなってほしい
男であること。

女であること。

それと並列にLもBもGもTも並ぶ時代がくれば良いなあ、といつも思います。

LGBT映画から考える映画論

LGBTを扱った映画のすべてを、セクシャルマイノリティの権利を訴えるメッセージとして受け取る必要はないと思います。

映画によって人生観変わったり価値観変わったり、そんなことは無いのがふつう。

 

監督がどうだカメラワークがどうだ伏線はこうだとどれだけ高尚なゴタクを並べたところで、映画は映画でしかないし、それは「娯楽」以外の何物でもない。

明日を生き抜くためのほんのちょっとの勇気や元気がもらえればそれでいい。

 

彼らが居た。

彼らは生きた。

 

そのありふれた事実の干渉不可能な観察者としてのみ、映画の観客はあるべきなのかもしれません。

 

シャロンという、いち黒人男性の人生があったこと(「ムーンライト」)。

デイヴィスとクリスの人生が交錯したこと(「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う)。

ルイが望んだ家族との邂逅は果たせず、カタストロフも何も無く世界は終わっていくこと(「たかが世界の終わり」)。

 

流れ過ぎて行く光景の一つ。

映画というのはそれでいいのかな、と思ったりもします。

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