RADWIMPSの隠れた名曲『棒人間』の偏り過ぎな解説  ―小説『人間失格』との共通点

   
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こんにちは!FtXブロガーのreiji(れいじ)です!

もうお聞きになりましたでしょうか、RADWIMPSの最新アルバム(2017年4月現在)『人間開花

J-POPシーンの最前線に躍り出てなお、期待を裏切らない素晴らしいアルバムでしたね。

 

今回のお話はその『人間開花』に収められた一曲、『棒人間』についてです。

僕は人間じゃない」という一言から始まるこの曲。明るい曲調ですが、はっきり言ってヤバい。

アルバム『人間開花』

多分ツイッターだったと記憶していますが、

ほぼすべての楽曲の作詞作曲を担当しているボーカルの野田洋次郎は、このアルバム『人間開花』について、「絶望に用はなかった」という趣旨の発言をしていました。

 

でもこの曲、『棒人間』についてははっきりと絶望の匂いがします。

最終的に希望の余地を残してなお、その絶望の匂いは消し切れていません。

 

映画『君の名は』をきっかけにあれだけブレイクして、武道館でライブをして、バンドとしてこれだけ華々しい成功をしていても、

野田洋次郎という人間、RADWIMPSというバンドは未だ絶望の淵にいるのだと、僕はそういう感想を持ちました。

『棒人間』と『人間失格』

僕は人間じゃない」という言葉、何かを思い出しませんか?

そう、太宰治の『人間失格』です。

『棒人間』と言う曲も、『人間失格』という小説も、語っているのは同じく、自分と人間との間に広がる深く遠い隔絶について です。

 

両者をよく比べてみると、人間に向かって過剰な「サーヴィス」をし、「お道化(おどけ)」を演じ続けた「葉蔵」の姿と、人間であるための「必要事項」をこなし続ける「」の姿は驚くほどにダブります。

 

前回の記事(リンク先;尾崎豊の最期の言葉「勝てるかな・・・」から考える戦う人生の分岐点)で僕は、人間には二種類あるという話をしました。

 

戦う人と戦わない人。

「人間失格」者と人間。

 

「人間失格」者には、人間(他者)の感情が分かりません。

「人間失格」者には、人間の言動の意味が分かりません。

 

だから懸命に人間の真似をし、人間の振りをし、「お道化(おどけ)」るのです。

ただただ人間の群れに所属し、早く人間になりたいがために。

妖怪かよ   by 神木出雲

引用元:『青の祓魔師』18巻 著.加藤和恵 (集英社)

早く人間になりたい

人間になりたかった「葉蔵」は、やがて酒に溺れ女に溺れ薬に溺れ、最後は「完全に、人間ではなくなり」ます。

 

一方で『棒人間』の「僕」は、

人間とは程遠い存在のように思える自分自身の苦しみを吐露しながらもまだ人間でいたいと、一縷の糸のような、人間に対する淡い希望を捨てきってはいません。

 

「葉蔵」と「僕」にとって、人間であることとはいったい何を意味しているのか。

所属感

それだけではないでしょう。

苦しみの終わり

そう、これです。

 

「人間失格」者たちは、こんな激しい痛みも苦しみもなく、違和感もなく、人間たちと分かりあえることを気も狂わんほどに求めてやみません。

でもそんなことが、人間と「人間失格」者たちが分かりあうなんてことが可能なのでしょうか。

 

違う言い方をしてみましょう。

 

人間と邂逅した「人間失格」者は、果たして「僕」といえるのだろうか。

「僕」の原型をとどめているのだろうか。

 

人間との邂逅とは、自分が自分であることを手放した結果、と言えるのではないか。

人間になれないことを苦しいと言いながら、本当は「人間失格」者であることこそ、僕が僕であるという証、誇れる唯一のアイデンティティではないのか。

だとするならば、救いは一体どこにあるというのでしょう。

人間、人間未満、そして狂人

アドラーに言わせるならば、「人間失格」者は、変わりたいのに変われないのではなく、「変わらない決断」をしています。

 

この場所がとても苦しいということは知っている。

でもそんな苦しみや痛みを受けてなお、自分が自分であることを捨ててまで人間に媚(こび)を売る気はしない。

人間に尻尾を振る気はしない。

それは敗北であり、耐え難いほどの屈辱だから。

 

人間を羨望し続ける無様な人間未満

「人間失格」者たちは、そういう役回りを自ら好んで受け取っているわけです。

その苦しみの原因は、人間にもなりきれず狂いきることもできないということです。

 

人間に、共同体の所属者になりたくて努力をするのは、社会的動物の行動としてはまあ健全なのでしょう。

 

でもどんなに希望を見ても努力をしても、人間の側に行けない類の人種は常に一定数はいる と僕は思うのです。

狂人に振り切ってしまえば、

あるいは完全に人間であることを捨てないにしても、TPOに応じて人間、人間未満、狂人のそれぞれに針を振り分ける器用さやずる賢さも時には必要だったりします。

まとめ RADWIMPSというバンド

表現者というのは、ある意味逃れられない業(ごう)の中にいます。

その鬱屈や苦しみこそが作品の魅力だったり推進力だったりするからです。

「戦い続ける」という生き様自体が曲や作品の枠を超えたアーティストととしての商品価値でもあるのです。

 

表現者で居続けるということは、一番苦しい「人間未満」という場所に針を置き続ける、あるいはそれを演じ続けることでもあります。

そのことで壊れきってしまった表現者の一人が尾崎豊だという話は以前にしました。

 

でもRADWIMPSは鬱屈や苦しみに安住しているだけではありません。

 

前前前世』や『祈跡』、『25個目の染色体』で人間や「君」への揺るぎない愛を歌ったかと思えば、

億万笑者』『狭心症』では人間にも狂人にもなりきれない苦しみを吐露し、

揶揄』『へっくしゅん』『AADAAKOODAA』など完全にアンチ世界、アンチ人間、狂人に振り切った曲をも歌います。

 

RADWIMPSの曲たちは、人間への不信と愛とに揺れ動く感情に満ちています。

そのアンビバレンス具合がまた、彼らと彼らの音楽性の魅力なのかもしれません。

 

 

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reiji(れいじ)

長野県に住む24歳FtXブロガー。
生きづらい日々を生きやすく、つまらない人生を楽しくするためのノウハウを展開中。
映画、漫画、SF小説が大好き。

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